常磐長孫町の「河童伝説」。

湯本の街探検の続きですが、常磐長孫町に「河童伝説」の場所があるということで、足を向けてのぞいてきました。
場所的には田んぼのあぜ道の途中にあり、分からなければ通り過ぎてしまうかもしれません。


とにかく、こういった探訪は秋から冬の方がいいですね。
草ボーボーで非常に分かりずらいです、はい。
場所には可愛らしいカッパの石像があり、古くからこの地に伝わる伝説の説明が記されていました。

【河童伝説】
『藤の花は、五月に咲くのが通常です。それなのに長孫の川土手には、節でもない真夏の土用に、真っ白い藤の花を見ることがしばしばあったそうです。
これは、河童の恩返しだと言われています。
村人は河童が生け捕りにされたと聞いた長老が、
「今までこの岩崎川で、河童が悪さをしたのを見たことも聞いたこともない。可哀そうだから助けてあげなさい。」
と言い、それを聞いた河童は、右の小指を切って次のように書いたのでした。
「まだ人を殺したことはありません。しかし私は、天王様に人間の生き肝を奉納しなければなりません。その時は、夏の土用の頃、川土手に白い藤の花を咲かせます。その花を見た年は川に近寄らないでください。必ず約束は守ります。命を助けていただきありがとうございました。」
その何年か後の夏の土用、川土手に白い藤の花が咲きました。
人々は、河童の花が咲いたと、下の堰で水遊びを始めました。おかげで、川での厄も起こらずに済んだのだそうです。
現在では、河川工事に伴い、藤の花が消え去ってしまい、この言い伝えを残すのみとなりました。』
(常磐まちづくり懇談会)
なんとも風上のある伝説ですね。
周囲を見渡すと、なるほど(?)河童が潜んでいそうな雰囲気はあります?


目の前に伝説で語られる「岩崎川」。

こういった古くからの伝承は、大事にしていきたいもんです。
どこの地にもありますが、地域の宝の一つですよこれは。

河童を探しましたが、出てくる様子がないので、帰路につきました。


こういったポタリングが最高に楽しいですね。
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「超高速参勤交代」の湯長谷藩陣屋跡地で。

いわき市の温泉街、「湯本の街」をブラって来ました。
その湯本は何といっても「フラガール」に代表される「スパリゾートハワイアンズ(昔は常磐ハワイアンセンター)」が有名ですが、ちょっと前に映画で「超高速参勤交代」が話題になり、その影響で「湯長谷藩」に着目された時期がありました。


その前に、とにかく蒸して蒸してしょうがなかったので、コンビニで補給です。(´・_・`)

んで、その湯長谷藩ですが、当然お城などは残っておらず、その跡地があるだけです。
場所的には市立磐崎中学校の周辺で、石碑や陣屋跡の案内板などが残っているのみです。




しかし、時期が悪かったのか、周囲は草ボーボーで未管理状態です。(´・_・`)
ちょっと踏み込むと、虫が大量に集まってきます。
どうにもこういったところは、相変わらずといった感じです。


案内板がある場所は、堀(?)の一部と土塁が若干確認できるだけで、そのほかに見るべきものはありませんでした。
学校内に石碑があるようですが、無断で敷地内に入るわけにもいかないので、これはカット。
地元の有志が管理していると思いますが、なかなか難しいといったところでしょうか。
ここは、その場所に立ち、想いを馳せるのがロマンなのかもしれませんね~。
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いわき万本桜の「吊り橋」で。

いわき市回廊美術館の周囲は、「万本桜プロジェクト」が進められていますが、その奥に「吊り橋」があるというので、見に行ってきました。
ふにゃふにゃだったサスフォークにエアーを充填して、久しぶりのMTBを引っ張り出しました。
なんか、ケツが痛いなぁ~。

「回廊美術館」とは逆の方に進んでいくと、小高い丘陵地になっています。
途中、民家もあるので、自転車とはいえ押し歩きで進めるのがマナーです。

冬枯れているのでよく分かりませんが、桜の苗木があちらこちらに植えられています。
以前、美術館側へ行った際にも感じましたが、この桜の苗木に将来の子供たちへの懺悔心が生まれてきます。
汚染させてしまった国土を子供たちに引き継がせなければならない、罪深い大人たちの反省のプロジェクトです。(´・_・`)

さらに奥に進むと、なるほど、小ぶりではありますが、吊り橋がかけられていました。
ここは初めてですね。

あまり高さもありませんが、その先は山の頂上に向かって道が伸びています。


将来は、この吊り橋の周りも桜でいっぱいになるんでしょうね。

さて、吊り橋をおそるおそる歩いてみますが、これが結構恐怖心をくすぐります。
ハンドメイドなのは分かりますが、ワイヤーがかなり細く、少し体重をのせただけで「ユ~ラユ~ラ」と左右に揺れます。
高さは3~4m程度でしょうが、怖いものがありますよこれは。(´・Д・)」




山頂へ足を進めると、ここにも「散策マップ」が備えられています。

ここまで登ると、市街地が一望できる高さです。
これは気持ちいいですね。

下から見上げたとき、山頂に「櫓」のようなものがあったので、気になっていました。

これは、「再生の塔」と名付けられたものらしいです。
まだ、工事途中なのでしょうか。
ただ、この「再生」が何を指すのかは愚問ってもんでしょう。


この塔の前には、ベンチが並んでいて、市街地をゆっくりと満喫できるビューポイントになっています。
春先にもう一度来てみたい場所です。
コロナとは本当に無縁な場所の感じでしたよ。

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いわき市の「円筒分水」施設。

いわき市の高久地区にある「円筒分水」を見学してきました。
史跡ではありませんが、こういった過去の遺産見学は楽しいもんです。
”円筒分水”とは何か?ということですが、説明面倒くさいので、ウィキペディアから引用しますと・・・。
「円筒分水(えんとうぶんすい)は、農業用水などを一定の割合で正確に分配するために用いられる利水施設。円筒状の設備の中心部に用水を湧き出させ、円筒外周部から越流、落下する際に一定の割合に分割される仕組みとなっている。地域によっては円形分水(えんけいぶんすい)、円筒分水槽(えんとうぶんすいそう)、円筒分水庫(えんとうぶんすいこ)などとも呼ばれる。土木工事分野では「円筒分水工」(えんとうぶんすいこう、英: circular tank diversion works[1])と呼ばれる。原義は工事の名称だが、完工した設備についても同様に呼ばれる。」
というものです。
日本には昔から「我田引水」なんていう言葉もあるくらいで、田の管理というのは命懸けの面もあったでしょう。
先人の知恵で、うま~く分水することを考えたもんですね。
でも、どこでもある施設ではないようで、珍しいと感じます。

”円筒分水”の傍らには、この高久地区での農業整備事業のあらましや、記念碑が建っています。
苦労されたんですね~。
そんな苦労も知らずに、毎日”ガツガツ”と飯を食っているわけです。


中央の立坑から農業用水が吹き出しています。
この水が360度区別なく各水田へ水を供給する仕組みです。



おかげで、各水田では、稲がスクスクと育っていくわけです。
収穫の秋が楽しみですね~。



近くの消防団の詰所。
こうやって、ブラブラ走ってみると、まだまだ見所がたくさんあるな~なんて感じました。
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MTB通勤と上小川地区の「ヤマユリ分校」を訪ねて。

先日は諸処の事情があり、久しぶりにジテツウ(MTB通勤)してみました。
距離的には、20kmあるかないかくらいなので、さほど苦にはなりません。
幸い(?)職場は、屋内にもチャリ保管できるので、その点も心配ないですね。


さて、話はアチャコッチャになりますが、職務でいわき市の限界集落である「上小川の戸渡地区」に行く用事がありました。
とにかく、市街地からはアクセスが悪く、国道(酷道)399号をひたすら北上し、川内村との境にある集落です。
そのついでではないですが、既に廃校となった「いわき市立小川小学校戸渡分校」に立ち寄ってみる機会もありました。

ここは、かつて「ヤマユリ分校」として、有名になった小学校分校です。
今では廃校となって久しく、また原発事故の影響により、子供はおろか居住している人も数世帯の数人と聞いています。
ここには、記念碑があり、皇室とゆかりの深いエピソードが記されています。
皇居を訪れた当時の戸渡分校児童が、あまりにも皇居が殺風景なのに対し、純粋に「皇居を戸渡地区のシンボルでもあるヤマユリで一杯に飾ってあげたい。」とヤマユリの球根を約2,000個あまり皇室に献上したところ、美智子皇后は大変感激し、そのお礼にメタセコイヤの苗木5本を分校に送った。そのメタセコイヤの木々は今日でも分校を見守っているようです。
昭和36年の出来事で、それ以来、皇室とヤマユリがきっかけで結ばれた本校は、「ヤマユリ分校」として有名になりました。♪(/・ω・)/ ♪

5本のメタセコイヤのうち、おそらく3本はこの木です。
さすがに巨大さが遠くからでも見て取れますが、状況が状況だけにひどく朽ち果てて寂しく感じます。(´・Д・)」

皇室から献上されたこのメタセコイヤも、既に誰も管理する人がいなくなり、その勇姿を見上げる人も誰もいません。(´・_・`)

こちらも、5本のうちの1本でしょうか。
詳しい文献がないので、どうにも特定はできません。

平成11年までは、分校として児童の姿もあったようですが、その後過疎化に伴い廃校となりました。
その後は、地区の集会施設としての利用もあったようですが、原発事故により全てが終焉となりました。(。´・(ェ)・)

かつては、可愛らしい多くの児童たちが、この校門をくぐって、元気に通っていたのでしょう。

残念ながら、中の様子はうかがえません。



校庭は、長い期間、人の出入りがなかったせいか、落ち葉の上にまた落ち葉が積もり、それが腐ってさらに落ち葉が積もり・・・といった状態で、フカフカのジュータンの様になっていました。
なぜか、目をつぶると、子供たちの声が聞こえるような感じもします。(´・_・`)



ブランコの跡地も・・・・・寂しいもんですね。


間違いなく、ここには多くの児童たちの姿があったんです。
今では、児童はおろか、あたりに人の気配がありません。
ここに至るまで、すれ違ったのは、2台の工事車両のみです。住民の姿は皆無でした。

現在、この近辺は、国道399号の拡幅工事やトンネル工事が進められているようです。
危惧されるのは、そういった事業が進むと、必ず合理化の名目のもとに、こういった遺産をぶち壊してしまうことですね。
今では、まるで「廃村」化したこの地区ですが、何とかしてもらいたいもんです。(´・_・`)

この日は、帰り道・・・・・真っ暗になってしまいました。
風もそこそこの強さになってしまい、「ここに通勤するなら、ロードの方が楽だな~。」と感じましたね。



帰り道は、いつものコンビニで、ちょいつまみ食いです。
では!(・Д・)ノ
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