果てしなき大震災・放射能との闘い その2
前回の続きになります。
あまり愉快な記事にはならないので、ご了承ください。
◎3月13日(日)・・・
本来ならば、今日は非番に当たる日であった。しかし、非常事態を迎え勤務体制は全員勤務体制となっている。職場の雰囲気は、戦時体制化している。市内のあちこちで火災が発生している。特に沿岸部が燃え続いている。
ここいわき市は、数年前までは日本一面積が広い市としても有名であったように、とにかく南北間の距離が非常に長い。いわき市内には東京23区が丸ごと入ってもお釣りがくるくらいの面積だ。しかし、隊員の数は少数である。
一気に多数の広域火災が発生した。指揮系統がうまく作用しない。
しだいに、イライラ感がつのる。「危機意識の欠如があったか…。」
管轄という概念は最早消え去り、動けるものが動ける地域で任務を遂行するといった、行き当たりバッタリの活動に入る。どこでどのくらいの被害が発生しているのか分からない。情報が錯綜し、内容が二転三転する。大津波警報はいまだに発令中である。併せて原子力発電所の事故が続発し始める。
この頃、市民の関心は福島第一原発に集中していた。
1号機、3号機が次々に爆発する。東電や政府は放射能の影響は低いという。科学的な根拠として認識できないため、当然市民の誰もが信じることができない。この原発が破壊されたら、間違いなくこの市は歴史に終止符を打つことが分かっている。誰かが、装備品の一つである、放射線線量計を持ち出してきた。信じられなかったが、マイクロシーベルトの数値は確実に上がっていた。(この時点で1・2~3位だったと記憶している。)
家族を避難させなければならない。しかし、いまだに電話通信網は不通であるため、連絡手段がない。あせりと緊張が身体を走る。自宅は、市の北側に位置するのだ。何をするのも地に足が付かない状態になってきた。外の住民も情報を把握しているようだ。市内中衝撃が走る。
このとき、本来の非番員に一時帰宅が許可された。皆、大地震のあと、自宅を投げ捨て、集まってきた者たちばかりだ。一旦帰ることができる…。この指示は、何よりの褒美に感じられた。
その時であったと思うが、原子炉2号機が完全に冷却機能を失ったとの報道が流れた…。
車を北上しながら帰宅路を走る。対向車線はやはり大渋滞だ。しかし、昨日とは様子が異なる。皆、ガソリンスタンドに列を成している。燃料タンクを満タンにし、市外脱出を図る市民の列だ。自分の車の燃料も半分を切っている。しかし、今は給油する時間的余裕はない。先のことは全く考えることができなかった。
自宅に着くと、嫁と子供達が笑顔で迎えてくれた。自分以上に冷静だ。自分は恥ずかしくなってしまった。自分が冷静さを失い、パニックを起こせば家族はそれ以上である。冷静さを装い家の中をとりあえず確認した。
やはりライフラインの大動脈である水が出ない。断水である。しかし、嫁は先にこの状況を察していたのか、揺れの直後に風呂の浴槽に水を溜めておいたようだ。頭が下がる。自分はいったい何をしているんだ?
聞くと市内中断水で、復旧の見込みはないとのこと。しかし、水は何としても確保しなければならない。この後、平の浄水場で配給水が行われるという。家中にある空のペットボトルを持参し、現場へ向かった。時間的に午後4時ごろであったろうか。しかし、この浄水場は自宅から結構な距離にあった。ガソリンの残量も気になるので、エンジンの回転にまで気を使いながらの走行である。ニュートラルで走行する危険を冒しながらやっと浄水場へ到着した。浄水場は数百メートルにわたる車と人の列であった…。
自分は行列に並ぶといった行為があまり好きではない。好きな人間などいないと思うが、生まれてこの方並んだことがない。しかし、今回は生活水の問題なので、選択の余地はなかった。列の最後尾に並ぶ。北西の風が冷たく、震える気温だ。見れば、家族総出で行列に並んでいるグループもある。就学前のような子供達も500mlのペットボトルを手に並んでいる。中には流れる時間が遅いことに不満を口にする大人もいたが、子供達はじっと順番が来るのを待っている。恥ずかしいという気持ちと併せて、これからの未来は明るいとも感じて取れた。今の子供達は、我々が思っている以上にたくましいのだ。
(給水場の列・写真は全て携帯なので悪しからず)
何とか給水を終えた。時間は夜の8時30分である。辺りは真っ暗で、手が凍るように冷たい、痛い。こんな日がこれから毎日続くのかと思うと、力が抜けていく。取りあえず、家族数日分の水は足りるだろう。
テレビでは絶望的な報道が流れていた。原発1号機から3号機は制御不能、4号機も冷却できないとの内容。
「人間は何て愚かなものを造ってしまったのか…。人間の命を危険にさらして何が経済発展か。何が首都機能か。」
嫁に避難準備を進めるよう進言し、子供達にも事態を説明した。子供達は落ち込んではいなかった。
「パパはいけないので、避難先ではママの言うことをよく聞くように…。」
◎3月14日(月)・・・
これより、連日連夜勤務場所で過ごす事になった。自分の任務はこれより、行方不明者の捜索活動がメインとなった。次々と任務命令が流れる。タバコに火をつける時間もない位に。
そんな中、1件の急病人の出動があった。内容は全身の倦怠感である。「この状況で、そんな内容か…。」現場に着くと家族の話がおかしい。訳を聞くと、その傷病者は、福島原発4号機で作業をしていた者で、命からがら逃げてきたのだという。隊員に緊張が走る。装備は通常の装備だ。被曝者の可能性が高い!しかし、通常装備でも仕事はしなければならない。係るバイタル測定を施し、病院へ搬送する。傷病者は放射線測定検査を受け、治療された。自分達の放射線濃度については分からなかった。次の現場へ向かわなければならない。
市内の学校が全て避難所と化してきた。原発が立地する双葉・大熊・浪江町からの避難者が入所してきている。これらの市民は既に被曝しているかもしれないが、市は暖かく彼らを迎えたようだ。今、人間性が試されている。
原発事故はいよいよ深刻さを増してきた。放射能物質の流出が止まらないようだ。避難指示エリア・屋内退避エリアが示される。我が家は屋内退避エリアのギリギリ外側だ。しかし、枠外であるから屋内退避をしなくてもよいという根拠はどこにもない。家族に連絡を入れる。幸いにこの頃は、何とか携帯電話がつながるようになっていた。
「最早原発を止めることはできまい。家族で避難するよう。行き先は指定できないが、母方(嫁の)と相談して、一緒に行動するよう…。」
嫁からはしばらくして、次の回答があった。
「迷惑になるとも思うので、明日、母と家族と福島市の方へ避難します。無理せずに頑張ってください。」
翌日、家から家族が消えた…。
◎3月15日(火)~3月22日(火)
この間は、戦場に留まり続けた。家に帰っても誰もいない。戦場は悲惨だが、仲間がいるので心の支えになる。多くの避難者と接し、多くの瓦礫を運び、そして無念であったに違いない遺体の搬送を毎日繰り返す。放射線量は毎日増加の一途だ。
政府と東電は「ただちに健康に害を及ぼす値ではありません…。」の繰り返し。
おかしいではないか!”ただちに”ということは、将来的には害を及ぼしかねないとの逆説語である。全く進展を見ない原発の状況に、どうして将来も大丈夫といえるのか?単に国語力が無いだけなのか、国民を馬鹿にしているのか分からない指導部である。
海外の報道に目をやる。「今の日本は、優秀な国民が自主的に復興にむけた作用を動かしているが、無能な政治家が足をひっぱている。」との内容。さすが客観的に評価できるだけあって、正鵠を射ていると感じる。
そういえば、発災から一回も風呂に入っていない。この状況下、風呂は何よりのご馳走だ。しかし、水はいまだに断水であり、風呂等遠い夢である。身体の皮膚が、魚の鱗のようになってきている。
この期間、これまでの文明的生活をもう一度見直すことができた。
もう二度と、水の無駄遣いや食品の投げ捨てはしないと誓う。
一食につき賞味期限の切れたおにぎり1個ないし2個の生活が続いていた…。
◎ 3月23日(水)
嫁と家族が帰ってきた。避難して1週間、心身ともに疲労し、覚悟を決めての帰宅だ。原発の状況は一向に好転しない。それでも表情は安堵感が感じられた。また直ぐに避難しなければならない状況に陥るかもしれない。そのときはそのときだという意思表示だ。水は相変わらずの断水状態。家族のために給水に向かう。幸いなことに子供達に悲壮感は感じられない。避難先での楽しかった出来事を笑顔で話し始める。子供は強い…。
久しぶりの家族団らんを過ごす。子供達の顔を眺めると、今後、絶対に原発を建設してはならないと感じる。
◎ 3月25日(金)
この日は、かつて活動場所であった久ノ浜地区の行方不明者捜索活動である。北西の風が吹きすさぶ。今日は二人の遺体を収容した。一人は70代の老婆で川岸で発見、もう一人は、おそらく就学前であろう、5歳くらいの男の子だ。瓦礫の下で発見した。合掌しながら無念さを悔やむ。ふと活動中に嫁からメールが届く。家に通水が確認されたとのことだ。徐々にではあるが、ライフラインは復旧しつつあるのが感じて取れた。水道局関連の職員も不眠不休で仕事をこなしていた。大気中の放射線に怯えながらの作業であったに違いないが、プロ魂ここに極まれりであろう。
この日は任務を終えた後、帰宅することができた。チョロ水ではあるが、たしかに蛇口から水道が流れている。全員で拍手の喜びだ。水がこんなにも愛おしいものだとは。時間はかかったが、約2週間ぶりの風呂を満喫できた。人間としての生活を取り戻した瞬間だった。
◎ その後
その後、原発は一向に好転の気配を見せず、水道から流れる水には放射能汚染物質の危険性が指摘された。作物も今年は収穫できない。全ては原発に起因するのである。
われらの生活を全て奪う権利が原発にはあるのか?
現在、首都圏では計画停電が行われ、大きな社会問題になっているという。
「それの何が問題なのか?」
今回の原発事故で改めて認識させられた。
原発は必要ない! 電力が足りないというなら、生涯計画停電を続ければいい!
人間の命と生活を奪っておいて、何が電力不足か?
それでも必要というのであれば、必要な地域に造ればいい。我々は必要ない。
電力が無ければ、無いなりの生活をすればいいのである。
人間としての尊厳を奪われた我々に、経済の二文字はむなしく響くだけである。
今後、日本人は大きな選択を迫られる。
”経済か?基本的人権か?”
特に首都圏の方々には考えていただきたいと思う。
首都圏の多くの方々は、被曝した人間さらにその家族を目にしたことがおそらく無いであろう。
ここ”いわき市”も無傷では済まされまい。
”地震・津波・原発・汚染物質・風評被害”・・・・・・・あらゆる負の評価を受け賜った。
今後、自分たちがどうなるのか…誰にも分からないのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
究極の日常の中で、胸に詰まったものを全て記事にさせてもらいました。
内容的に不適切な表現があったと思いますが、ご了承ください。
本来は、自転車ブログなので、こういった記事は、今後なるべく控えたいとは思っています。
今回の大震災・・・・忘れることなく、後世に伝えていく使命をひしひしと感じました。
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◎3月13日(日)・・・
本来ならば、今日は非番に当たる日であった。しかし、非常事態を迎え勤務体制は全員勤務体制となっている。職場の雰囲気は、戦時体制化している。市内のあちこちで火災が発生している。特に沿岸部が燃え続いている。
ここいわき市は、数年前までは日本一面積が広い市としても有名であったように、とにかく南北間の距離が非常に長い。いわき市内には東京23区が丸ごと入ってもお釣りがくるくらいの面積だ。しかし、隊員の数は少数である。
一気に多数の広域火災が発生した。指揮系統がうまく作用しない。
しだいに、イライラ感がつのる。「危機意識の欠如があったか…。」
管轄という概念は最早消え去り、動けるものが動ける地域で任務を遂行するといった、行き当たりバッタリの活動に入る。どこでどのくらいの被害が発生しているのか分からない。情報が錯綜し、内容が二転三転する。大津波警報はいまだに発令中である。併せて原子力発電所の事故が続発し始める。
この頃、市民の関心は福島第一原発に集中していた。
1号機、3号機が次々に爆発する。東電や政府は放射能の影響は低いという。科学的な根拠として認識できないため、当然市民の誰もが信じることができない。この原発が破壊されたら、間違いなくこの市は歴史に終止符を打つことが分かっている。誰かが、装備品の一つである、放射線線量計を持ち出してきた。信じられなかったが、マイクロシーベルトの数値は確実に上がっていた。(この時点で1・2~3位だったと記憶している。)
家族を避難させなければならない。しかし、いまだに電話通信網は不通であるため、連絡手段がない。あせりと緊張が身体を走る。自宅は、市の北側に位置するのだ。何をするのも地に足が付かない状態になってきた。外の住民も情報を把握しているようだ。市内中衝撃が走る。
このとき、本来の非番員に一時帰宅が許可された。皆、大地震のあと、自宅を投げ捨て、集まってきた者たちばかりだ。一旦帰ることができる…。この指示は、何よりの褒美に感じられた。
その時であったと思うが、原子炉2号機が完全に冷却機能を失ったとの報道が流れた…。
車を北上しながら帰宅路を走る。対向車線はやはり大渋滞だ。しかし、昨日とは様子が異なる。皆、ガソリンスタンドに列を成している。燃料タンクを満タンにし、市外脱出を図る市民の列だ。自分の車の燃料も半分を切っている。しかし、今は給油する時間的余裕はない。先のことは全く考えることができなかった。
自宅に着くと、嫁と子供達が笑顔で迎えてくれた。自分以上に冷静だ。自分は恥ずかしくなってしまった。自分が冷静さを失い、パニックを起こせば家族はそれ以上である。冷静さを装い家の中をとりあえず確認した。
やはりライフラインの大動脈である水が出ない。断水である。しかし、嫁は先にこの状況を察していたのか、揺れの直後に風呂の浴槽に水を溜めておいたようだ。頭が下がる。自分はいったい何をしているんだ?
聞くと市内中断水で、復旧の見込みはないとのこと。しかし、水は何としても確保しなければならない。この後、平の浄水場で配給水が行われるという。家中にある空のペットボトルを持参し、現場へ向かった。時間的に午後4時ごろであったろうか。しかし、この浄水場は自宅から結構な距離にあった。ガソリンの残量も気になるので、エンジンの回転にまで気を使いながらの走行である。ニュートラルで走行する危険を冒しながらやっと浄水場へ到着した。浄水場は数百メートルにわたる車と人の列であった…。
自分は行列に並ぶといった行為があまり好きではない。好きな人間などいないと思うが、生まれてこの方並んだことがない。しかし、今回は生活水の問題なので、選択の余地はなかった。列の最後尾に並ぶ。北西の風が冷たく、震える気温だ。見れば、家族総出で行列に並んでいるグループもある。就学前のような子供達も500mlのペットボトルを手に並んでいる。中には流れる時間が遅いことに不満を口にする大人もいたが、子供達はじっと順番が来るのを待っている。恥ずかしいという気持ちと併せて、これからの未来は明るいとも感じて取れた。今の子供達は、我々が思っている以上にたくましいのだ。

(給水場の列・写真は全て携帯なので悪しからず)
何とか給水を終えた。時間は夜の8時30分である。辺りは真っ暗で、手が凍るように冷たい、痛い。こんな日がこれから毎日続くのかと思うと、力が抜けていく。取りあえず、家族数日分の水は足りるだろう。
テレビでは絶望的な報道が流れていた。原発1号機から3号機は制御不能、4号機も冷却できないとの内容。
「人間は何て愚かなものを造ってしまったのか…。人間の命を危険にさらして何が経済発展か。何が首都機能か。」
嫁に避難準備を進めるよう進言し、子供達にも事態を説明した。子供達は落ち込んではいなかった。
「パパはいけないので、避難先ではママの言うことをよく聞くように…。」
◎3月14日(月)・・・
これより、連日連夜勤務場所で過ごす事になった。自分の任務はこれより、行方不明者の捜索活動がメインとなった。次々と任務命令が流れる。タバコに火をつける時間もない位に。
そんな中、1件の急病人の出動があった。内容は全身の倦怠感である。「この状況で、そんな内容か…。」現場に着くと家族の話がおかしい。訳を聞くと、その傷病者は、福島原発4号機で作業をしていた者で、命からがら逃げてきたのだという。隊員に緊張が走る。装備は通常の装備だ。被曝者の可能性が高い!しかし、通常装備でも仕事はしなければならない。係るバイタル測定を施し、病院へ搬送する。傷病者は放射線測定検査を受け、治療された。自分達の放射線濃度については分からなかった。次の現場へ向かわなければならない。
市内の学校が全て避難所と化してきた。原発が立地する双葉・大熊・浪江町からの避難者が入所してきている。これらの市民は既に被曝しているかもしれないが、市は暖かく彼らを迎えたようだ。今、人間性が試されている。
原発事故はいよいよ深刻さを増してきた。放射能物質の流出が止まらないようだ。避難指示エリア・屋内退避エリアが示される。我が家は屋内退避エリアのギリギリ外側だ。しかし、枠外であるから屋内退避をしなくてもよいという根拠はどこにもない。家族に連絡を入れる。幸いにこの頃は、何とか携帯電話がつながるようになっていた。
「最早原発を止めることはできまい。家族で避難するよう。行き先は指定できないが、母方(嫁の)と相談して、一緒に行動するよう…。」
嫁からはしばらくして、次の回答があった。
「迷惑になるとも思うので、明日、母と家族と福島市の方へ避難します。無理せずに頑張ってください。」
翌日、家から家族が消えた…。
◎3月15日(火)~3月22日(火)
この間は、戦場に留まり続けた。家に帰っても誰もいない。戦場は悲惨だが、仲間がいるので心の支えになる。多くの避難者と接し、多くの瓦礫を運び、そして無念であったに違いない遺体の搬送を毎日繰り返す。放射線量は毎日増加の一途だ。
政府と東電は「ただちに健康に害を及ぼす値ではありません…。」の繰り返し。
おかしいではないか!”ただちに”ということは、将来的には害を及ぼしかねないとの逆説語である。全く進展を見ない原発の状況に、どうして将来も大丈夫といえるのか?単に国語力が無いだけなのか、国民を馬鹿にしているのか分からない指導部である。
海外の報道に目をやる。「今の日本は、優秀な国民が自主的に復興にむけた作用を動かしているが、無能な政治家が足をひっぱている。」との内容。さすが客観的に評価できるだけあって、正鵠を射ていると感じる。
そういえば、発災から一回も風呂に入っていない。この状況下、風呂は何よりのご馳走だ。しかし、水はいまだに断水であり、風呂等遠い夢である。身体の皮膚が、魚の鱗のようになってきている。
この期間、これまでの文明的生活をもう一度見直すことができた。
もう二度と、水の無駄遣いや食品の投げ捨てはしないと誓う。
一食につき賞味期限の切れたおにぎり1個ないし2個の生活が続いていた…。
◎ 3月23日(水)
嫁と家族が帰ってきた。避難して1週間、心身ともに疲労し、覚悟を決めての帰宅だ。原発の状況は一向に好転しない。それでも表情は安堵感が感じられた。また直ぐに避難しなければならない状況に陥るかもしれない。そのときはそのときだという意思表示だ。水は相変わらずの断水状態。家族のために給水に向かう。幸いなことに子供達に悲壮感は感じられない。避難先での楽しかった出来事を笑顔で話し始める。子供は強い…。
久しぶりの家族団らんを過ごす。子供達の顔を眺めると、今後、絶対に原発を建設してはならないと感じる。
◎ 3月25日(金)
この日は、かつて活動場所であった久ノ浜地区の行方不明者捜索活動である。北西の風が吹きすさぶ。今日は二人の遺体を収容した。一人は70代の老婆で川岸で発見、もう一人は、おそらく就学前であろう、5歳くらいの男の子だ。瓦礫の下で発見した。合掌しながら無念さを悔やむ。ふと活動中に嫁からメールが届く。家に通水が確認されたとのことだ。徐々にではあるが、ライフラインは復旧しつつあるのが感じて取れた。水道局関連の職員も不眠不休で仕事をこなしていた。大気中の放射線に怯えながらの作業であったに違いないが、プロ魂ここに極まれりであろう。
この日は任務を終えた後、帰宅することができた。チョロ水ではあるが、たしかに蛇口から水道が流れている。全員で拍手の喜びだ。水がこんなにも愛おしいものだとは。時間はかかったが、約2週間ぶりの風呂を満喫できた。人間としての生活を取り戻した瞬間だった。
◎ その後
その後、原発は一向に好転の気配を見せず、水道から流れる水には放射能汚染物質の危険性が指摘された。作物も今年は収穫できない。全ては原発に起因するのである。
われらの生活を全て奪う権利が原発にはあるのか?
現在、首都圏では計画停電が行われ、大きな社会問題になっているという。
「それの何が問題なのか?」
今回の原発事故で改めて認識させられた。
原発は必要ない! 電力が足りないというなら、生涯計画停電を続ければいい!
人間の命と生活を奪っておいて、何が電力不足か?
それでも必要というのであれば、必要な地域に造ればいい。我々は必要ない。
電力が無ければ、無いなりの生活をすればいいのである。
人間としての尊厳を奪われた我々に、経済の二文字はむなしく響くだけである。
今後、日本人は大きな選択を迫られる。
”経済か?基本的人権か?”
特に首都圏の方々には考えていただきたいと思う。
首都圏の多くの方々は、被曝した人間さらにその家族を目にしたことがおそらく無いであろう。
ここ”いわき市”も無傷では済まされまい。
”地震・津波・原発・汚染物質・風評被害”・・・・・・・あらゆる負の評価を受け賜った。
今後、自分たちがどうなるのか…誰にも分からないのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
究極の日常の中で、胸に詰まったものを全て記事にさせてもらいました。
内容的に不適切な表現があったと思いますが、ご了承ください。
本来は、自転車ブログなので、こういった記事は、今後なるべく控えたいとは思っています。
今回の大震災・・・・忘れることなく、後世に伝えていく使命をひしひしと感じました。
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果てしなき大震災・放射能との闘い その1
皆さん、お久しぶりです。
大震災から2週間が経過しました。報道のとおり、わが街はゴーストタウンと化していましたが、ここ数日にわたり、全国の支援の影響もあって、徐々に生活感を取り戻してきました。
しかし、ご存知のとおり、ここ”いわき市”は、福島第一原子力発電所のほぼ膝元といってもいい場所です。
毎日が放射線との闘いになっています。
我が家の家族も23日に帰ってきましたが、放射能の影響で、屋外に出ることがままならない状況です。
今更、東電や国の施策を批判する気も薄れてきました。
起こってしまったことに対して、どう対処するかで精一杯の毎日です。
この2週間は、人生で最大の危機を迎えました。
今日は、自宅で家族と待機状態です。
深夜に、この記事を記しながら、発災からこれまでを振り返ってみました…。
◎3月11日(金)・・・
運命の日。午後2時46分頃、突如地面が突き上がる。
自分は自宅の2階に居た。階下には、嫁さんと次女がいる。長女はちょうど下校時間である。
「地震だ!」
しかし、今回の揺れはこれまでのものとは明らかに異なる。
完全に”縦型”であり、地面からの突き上げが十数秒続く。
しかし、これでは終わらない。今度は、激しい横揺れが4~5分続く。
部屋中の物が倒れてくる、落ちてくる、耳には激しい地響きが鳴り続く。
立っていられない!自分の身の上に本や本棚が降りかかってくる。
「揺れている間は動くな!収まったら外へ逃げろ!」瞬時に階下の二人へ叫ぶ。
しかし、揺れは収まらない。長い!こんなに長い揺れは経験がない。
何とか立ち上がり、窓の外に目を向けると、辺りの住宅の屋根瓦や塀が崩れ落ちていく。
その瞬間、頭の中に”死”の文字がよぎる。
ようやく、揺れの第一波が収まる。幸いに一階に居た二人に怪我はない。
急いで外へ出る。庭中瓦屋根や瓦礫で一杯だ。その後直ぐに余震が襲う。比較的辺りに物がない自宅の畑側へ避難する。この余震が2分おきごとに続く。震度的には5強~6の強さだ。子供たちを伏せさせる。長女が帰ってこない。あちこちで悲鳴が聞こえる。
「地獄だ…」
次女を嫁に託し、市道へ走り出した。道路は目茶目茶だ。隣近所の人々も震えながら出てきている。見ると、子供達が走りながら近づいてくる。その中に自分の長女を確認する。幸い怪我はなかった。
取りあえず、家の中は危険なので、屋外で様子を見る。この間40分程だったろうか。余震の数はこの短時間で数十回である。ここで、はっと冷静さを取り戻した。
「この揺れでは、海底型であれば津波が来る!」ここは海岸線から約700mほどの平地である。比較的距離があるように感じたが、屋外から家の中のテレビを見つめる。悪い予感が的中する。海からの地震だ。しかも、大津波警報が我が家のエリアに発令された。
”大津波警報”…これまで聞いたことがない。予想される波の高さは10m以上との緊急報道である。
「危険だ!間違いなく呑まれる!」ここは海抜10mもない地域。至急車を出し、市街地(内陸部)へ走り出す。その後、平の市街地で大津波到来のニュースを聞く。内容は、
「いわき市の沿岸部は壊滅状態の模様です…。」とのこと。津波は第2派・第3派と来ることは承知していたが、取りあえず、呑まれるのは回避できた。しかし、自宅は残っていまい・・・・・頭が真っ白になった。
この間、行く当てもなく市内をグルグルと迷走する。どれだけの時間が経過したろうか・・・?嫁が自宅の様子を見たいという。子供達は何が起きているのか分かっていない。危険なのは承知で、自宅方面へ走り出した。
対向車線は、避難する車で大渋滞である。海側に位置する我が家に近づくも、波が到来した様子はない。
「・・・・?。」自宅は無事だった。理由は分からないが、難を逃れたようだ。(その後、我が家まで津波が到達しなかったのは、沿岸部に植林された屈強な防潮林と地形の影響によるもので、単なる偶然であったと知る。)
自分は現在、隣組の組長をしている。自分の家族も心配だが、隣組の人々の安否も確認しなければならない。屋外に待機するよう家族に言い残し、合計26件ある隣組の家庭を走り回る。息が切れたが、幸いに怪我人はいなかった。しかし、皆、自宅建物は崩れていた…。
地震から2時間が経過した。テレビでは各地の状況が次々に伝わってくる。
ここ”いわき市”は大きな被害を受けている。
今まで隠してきたわけではないが、自分の職務は、こういったときに出動し、被害者を保護するものである。今日は非番であったが、そんなことを言っていられない。職場に℡するもつながらない。何度℡してもつながらない。
連絡手段が途絶えている。こうなっては、直接職場へ行くしかない、そういうルールなのだ。家族3人に職場へ向かう旨を伝え、別れた。次女の笑顔が眩しかった・・・・。
職場では緊急体制であった。早速、自分に命が下る。久ノ浜地区で津波による大規模火災が発生している。これに出動せよ、といった命だ。これより丸二日間燃え続けた大規模火災との闘いが始まった。途中、自宅前を通過する。子供達の顔がぼんやり浮かんだ。
◎3月12日(土)・・・
昨日からの任務は、日を超えても継続していた。燃えている範囲は町全体である。人数が足りない!水が出ない!怒号が飛び交う地獄の中で、自分は必死に冷静さを取り戻そうとしていた。活動が6時間を越えた頃、時間は深夜の2時過ぎ頃であった。
「大津波警報発令!活動隊員は至急避難せよ!(繰り返し×2)」たびたび出されるこの無線指令が活動を妨害する。高台へ避難すると、町は空を赤く染めていた。所々爆発音が鳴り響く。空襲されている町のようだった。
最初の大津波で我が家は難を逃れたが、2度目は逃れられるとは限らない。急いでポンプ車の陰から、嫁へ電話を入れる。しかし、つながらない、つながらない、メールに切り替えて送信する。しかし、送信不能のメッセージが流れる。完全に家族との連絡は途絶えた…。ふと空を見上げた。空は星が輝いていた。何故か涙が溢れてきた。涙は頬をつたわり、口元に入った。何とか無事でいてくれることを祈り、再度活動現場へ戻った。
そして、何とか鎮火せしめた。約20時間以上に及ぶ活動は終わりに向かい、部隊は久ノ浜駅前に集結した。皆疲れきっていた。誰も彼もが疲れていた。
そのとき、耳を疑う報が入ってきた。
「福島第一原子力発電所で爆発事故発生の模様。放射能漏れが確認されるよう。直近隊は警戒されたい!」
「まさか・・・・・?」見ると、警察無線にも同様の内容の連絡が入っているようだ。慌てて引き上げる警察車両。
ここ久ノ浜は原発からきわめて近い。直線距離で30kmあるかないかの距離である。
「どうするんだ・・・。自分たちは・・・。」既に消防団も引き上げの様子を呈している。しかし、われらの部隊には撤退命令が下らない。どうするんだ・・・・・・・・・。結局出されたのは、現場維持・・・・・・。
耳を疑う指令内容であったが、逆らうことはできない。鎮火したといっても、まだ若干の残火がある。仕事は確かに残っている。これを放棄することはできないわけだ。うつむきながら、仲間と一緒に現場へ戻る。背後に放射能が迫っているのだ。この見えない恐怖を背にしながら、任務へと戻った。
仲間とは覚悟を決めた旨話し合う。皆、家族を持つ立場で同じ境遇である。
誰も逃げようとはしない。
「この仲間となら死んでも後悔はしないか・・・・。」つまらない思いを感じながら、家族が脳裏に浮かぶ。
葛藤の中で、2日目が終わっていった。
------------------(これ以降の記録はまた次の記事で)---------------------
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大震災から2週間が経過しました。報道のとおり、わが街はゴーストタウンと化していましたが、ここ数日にわたり、全国の支援の影響もあって、徐々に生活感を取り戻してきました。
しかし、ご存知のとおり、ここ”いわき市”は、福島第一原子力発電所のほぼ膝元といってもいい場所です。
毎日が放射線との闘いになっています。
我が家の家族も23日に帰ってきましたが、放射能の影響で、屋外に出ることがままならない状況です。
今更、東電や国の施策を批判する気も薄れてきました。
起こってしまったことに対して、どう対処するかで精一杯の毎日です。
この2週間は、人生で最大の危機を迎えました。
今日は、自宅で家族と待機状態です。
深夜に、この記事を記しながら、発災からこれまでを振り返ってみました…。
◎3月11日(金)・・・
運命の日。午後2時46分頃、突如地面が突き上がる。
自分は自宅の2階に居た。階下には、嫁さんと次女がいる。長女はちょうど下校時間である。
「地震だ!」
しかし、今回の揺れはこれまでのものとは明らかに異なる。
完全に”縦型”であり、地面からの突き上げが十数秒続く。
しかし、これでは終わらない。今度は、激しい横揺れが4~5分続く。
部屋中の物が倒れてくる、落ちてくる、耳には激しい地響きが鳴り続く。
立っていられない!自分の身の上に本や本棚が降りかかってくる。
「揺れている間は動くな!収まったら外へ逃げろ!」瞬時に階下の二人へ叫ぶ。
しかし、揺れは収まらない。長い!こんなに長い揺れは経験がない。
何とか立ち上がり、窓の外に目を向けると、辺りの住宅の屋根瓦や塀が崩れ落ちていく。
その瞬間、頭の中に”死”の文字がよぎる。
ようやく、揺れの第一波が収まる。幸いに一階に居た二人に怪我はない。
急いで外へ出る。庭中瓦屋根や瓦礫で一杯だ。その後直ぐに余震が襲う。比較的辺りに物がない自宅の畑側へ避難する。この余震が2分おきごとに続く。震度的には5強~6の強さだ。子供たちを伏せさせる。長女が帰ってこない。あちこちで悲鳴が聞こえる。
「地獄だ…」
次女を嫁に託し、市道へ走り出した。道路は目茶目茶だ。隣近所の人々も震えながら出てきている。見ると、子供達が走りながら近づいてくる。その中に自分の長女を確認する。幸い怪我はなかった。
取りあえず、家の中は危険なので、屋外で様子を見る。この間40分程だったろうか。余震の数はこの短時間で数十回である。ここで、はっと冷静さを取り戻した。
「この揺れでは、海底型であれば津波が来る!」ここは海岸線から約700mほどの平地である。比較的距離があるように感じたが、屋外から家の中のテレビを見つめる。悪い予感が的中する。海からの地震だ。しかも、大津波警報が我が家のエリアに発令された。
”大津波警報”…これまで聞いたことがない。予想される波の高さは10m以上との緊急報道である。
「危険だ!間違いなく呑まれる!」ここは海抜10mもない地域。至急車を出し、市街地(内陸部)へ走り出す。その後、平の市街地で大津波到来のニュースを聞く。内容は、
「いわき市の沿岸部は壊滅状態の模様です…。」とのこと。津波は第2派・第3派と来ることは承知していたが、取りあえず、呑まれるのは回避できた。しかし、自宅は残っていまい・・・・・頭が真っ白になった。
この間、行く当てもなく市内をグルグルと迷走する。どれだけの時間が経過したろうか・・・?嫁が自宅の様子を見たいという。子供達は何が起きているのか分かっていない。危険なのは承知で、自宅方面へ走り出した。
対向車線は、避難する車で大渋滞である。海側に位置する我が家に近づくも、波が到来した様子はない。
「・・・・?。」自宅は無事だった。理由は分からないが、難を逃れたようだ。(その後、我が家まで津波が到達しなかったのは、沿岸部に植林された屈強な防潮林と地形の影響によるもので、単なる偶然であったと知る。)
自分は現在、隣組の組長をしている。自分の家族も心配だが、隣組の人々の安否も確認しなければならない。屋外に待機するよう家族に言い残し、合計26件ある隣組の家庭を走り回る。息が切れたが、幸いに怪我人はいなかった。しかし、皆、自宅建物は崩れていた…。
地震から2時間が経過した。テレビでは各地の状況が次々に伝わってくる。
ここ”いわき市”は大きな被害を受けている。
今まで隠してきたわけではないが、自分の職務は、こういったときに出動し、被害者を保護するものである。今日は非番であったが、そんなことを言っていられない。職場に℡するもつながらない。何度℡してもつながらない。
連絡手段が途絶えている。こうなっては、直接職場へ行くしかない、そういうルールなのだ。家族3人に職場へ向かう旨を伝え、別れた。次女の笑顔が眩しかった・・・・。
職場では緊急体制であった。早速、自分に命が下る。久ノ浜地区で津波による大規模火災が発生している。これに出動せよ、といった命だ。これより丸二日間燃え続けた大規模火災との闘いが始まった。途中、自宅前を通過する。子供達の顔がぼんやり浮かんだ。
◎3月12日(土)・・・
昨日からの任務は、日を超えても継続していた。燃えている範囲は町全体である。人数が足りない!水が出ない!怒号が飛び交う地獄の中で、自分は必死に冷静さを取り戻そうとしていた。活動が6時間を越えた頃、時間は深夜の2時過ぎ頃であった。
「大津波警報発令!活動隊員は至急避難せよ!(繰り返し×2)」たびたび出されるこの無線指令が活動を妨害する。高台へ避難すると、町は空を赤く染めていた。所々爆発音が鳴り響く。空襲されている町のようだった。
最初の大津波で我が家は難を逃れたが、2度目は逃れられるとは限らない。急いでポンプ車の陰から、嫁へ電話を入れる。しかし、つながらない、つながらない、メールに切り替えて送信する。しかし、送信不能のメッセージが流れる。完全に家族との連絡は途絶えた…。ふと空を見上げた。空は星が輝いていた。何故か涙が溢れてきた。涙は頬をつたわり、口元に入った。何とか無事でいてくれることを祈り、再度活動現場へ戻った。
そして、何とか鎮火せしめた。約20時間以上に及ぶ活動は終わりに向かい、部隊は久ノ浜駅前に集結した。皆疲れきっていた。誰も彼もが疲れていた。
そのとき、耳を疑う報が入ってきた。
「福島第一原子力発電所で爆発事故発生の模様。放射能漏れが確認されるよう。直近隊は警戒されたい!」
「まさか・・・・・?」見ると、警察無線にも同様の内容の連絡が入っているようだ。慌てて引き上げる警察車両。
ここ久ノ浜は原発からきわめて近い。直線距離で30kmあるかないかの距離である。
「どうするんだ・・・。自分たちは・・・。」既に消防団も引き上げの様子を呈している。しかし、われらの部隊には撤退命令が下らない。どうするんだ・・・・・・・・・。結局出されたのは、現場維持・・・・・・。
耳を疑う指令内容であったが、逆らうことはできない。鎮火したといっても、まだ若干の残火がある。仕事は確かに残っている。これを放棄することはできないわけだ。うつむきながら、仲間と一緒に現場へ戻る。背後に放射能が迫っているのだ。この見えない恐怖を背にしながら、任務へと戻った。
仲間とは覚悟を決めた旨話し合う。皆、家族を持つ立場で同じ境遇である。
誰も逃げようとはしない。
「この仲間となら死んでも後悔はしないか・・・・。」つまらない思いを感じながら、家族が脳裏に浮かぶ。
葛藤の中で、2日目が終わっていった。
------------------(これ以降の記録はまた次の記事で)---------------------
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Fディスクブレーキのドラッグ解消
さて、先日走行中のこと、フロントのブレーキ周辺から不定期にドラッグのような振動を感じました。
ディスクのパットとローターが擦れているのかと思い確認するも、間隔は適正な状態。
「まさか、ハブの問題か?」と思いましたが、ハブは購入後間もないXTハブ。
異音が聞こえるのはやはりキャリパー周辺です。
以前、XTのローター形状とパットの爪が干渉するために、爪を削り取って対処した経緯がありました。
そのときは問題なく回転し、これまでの走行でも特に問題らしい問題は発生しませんでした。
「やはり干渉しているのか?」
もう一度クリアランスを含め確認します。
見ると、リア側は余裕を持って間隙があるのに対し、フロント側は、触っているか否かギリギリのようです。
慎重にホイールを回転させると、一定の箇所がキャリパー付近を回るときに、ドラッグが発生します。
これは、微妙なホイールの縦ブレ(走行には影響がない程度の)により、ローターとキャリパーが接触していると判断しました。
(1㎜あるかないかの間隙。もう少しの間はこのキャリパーを使うので。)
要は、キャリパーを若干後方へずらせば間隙は広がるはず。
家の中の使えるモノで対処しようと思い・・・・・・・・・。
(いくつかのワッシャーを試してみることに。)
まずは自分で考え、いろいろ試みてみてから。
それでダメならプロの出番…という考え方です。
(キャリパーとサスフォークの台座にワッシャーをかましてみることに。)
(調整前です)
(間に1㎜ワッシャーを追加。)
さぁ、どうなるか?
これでダメならショップ行きとあきらめ、各部を点検・回転試験をすると…。
(これだけで、かなりの隙間が確保できました。)
ホイールを回転してみても、今度はドラッグ音が確認できません。
同様におんもで、試乗テストをしてもOK!
取りあえずは解決できたようです。
というか、以前よりもホイールの回転が更に滑らかになったようです。
どうやら、若干のドラッグという現象により、ホイールの持ち味を殺してしまっていたようで。
何はともあれ、一つホッとしました。
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「まさか、ハブの問題か?」と思いましたが、ハブは購入後間もないXTハブ。
異音が聞こえるのはやはりキャリパー周辺です。
以前、XTのローター形状とパットの爪が干渉するために、爪を削り取って対処した経緯がありました。
そのときは問題なく回転し、これまでの走行でも特に問題らしい問題は発生しませんでした。
「やはり干渉しているのか?」

もう一度クリアランスを含め確認します。
見ると、リア側は余裕を持って間隙があるのに対し、フロント側は、触っているか否かギリギリのようです。
慎重にホイールを回転させると、一定の箇所がキャリパー付近を回るときに、ドラッグが発生します。
これは、微妙なホイールの縦ブレ(走行には影響がない程度の)により、ローターとキャリパーが接触していると判断しました。

(1㎜あるかないかの間隙。もう少しの間はこのキャリパーを使うので。)
要は、キャリパーを若干後方へずらせば間隙は広がるはず。
家の中の使えるモノで対処しようと思い・・・・・・・・・。

(いくつかのワッシャーを試してみることに。)
まずは自分で考え、いろいろ試みてみてから。
それでダメならプロの出番…という考え方です。

(キャリパーとサスフォークの台座にワッシャーをかましてみることに。)

(調整前です)

(間に1㎜ワッシャーを追加。)
さぁ、どうなるか?
これでダメならショップ行きとあきらめ、各部を点検・回転試験をすると…。

(これだけで、かなりの隙間が確保できました。)
ホイールを回転してみても、今度はドラッグ音が確認できません。
同様におんもで、試乗テストをしてもOK!
取りあえずは解決できたようです。
というか、以前よりもホイールの回転が更に滑らかになったようです。
どうやら、若干のドラッグという現象により、ホイールの持ち味を殺してしまっていたようで。
何はともあれ、一つホッとしました。

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本日は洗浄日和!?
今日も北風が強いものの、好天気。
ライドに向かいたいところですが、予定が一杯…。
限られた時間の中で、先日のトレイルで汚れたマシンの洗浄を遂行。
久しぶりのメンテデー。
(足回りがひどく汚れています。泥が乾いていてこいつは・・・)
(泥がカパカパですね。これは水洗いが必要か。)
タイヤや油を含むディレーラー、チェーン周辺の泥が乾いてしまっています。
そう頻繁にやるものではありませんが、今日はまるまる水洗いを実施。
(使うのはカーシャンプー。中性洗剤でもなんでもいいらしいが)
カーシャンプーを薄めて、バシャバシャと洗浄。
そういえば、カーシャンプー…買ってから車に使ったことがありませんね…。
(この際、シートポストも外しましょう。フレーム内の水を抜くことを忘れずに)
(ゴシゴシ…。泥がみるみる落ちていく・・・・・・。)
(新品のような輝きを戻しました。)
(ディレーラープーリー周りもゴシゴシ。)
(フレームは倒立させてゴシゴシ。こうすると水抜けがいいので。)
(おおっ。ピカピカになったぜよ。)
(スプロケ周りも泥が落ち…。)
(やっかいなFD回りも何とか泥が落ちました。)
この後は、お約束の注油作業。
各部にメンテルーブを注して、全てOK。
これで気持ちよくライドができるってもんでさぁ。
さぁて、本日のXTC3の作業が終わったので、本業(家の雑用)に移るかな。
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久しぶりのメンテデー。

(足回りがひどく汚れています。泥が乾いていてこいつは・・・)

(泥がカパカパですね。これは水洗いが必要か。)
タイヤや油を含むディレーラー、チェーン周辺の泥が乾いてしまっています。
そう頻繁にやるものではありませんが、今日はまるまる水洗いを実施。

(使うのはカーシャンプー。中性洗剤でもなんでもいいらしいが)
カーシャンプーを薄めて、バシャバシャと洗浄。
そういえば、カーシャンプー…買ってから車に使ったことがありませんね…。

(この際、シートポストも外しましょう。フレーム内の水を抜くことを忘れずに)

(ゴシゴシ…。泥がみるみる落ちていく・・・・・・。)

(新品のような輝きを戻しました。)

(ディレーラープーリー周りもゴシゴシ。)

(フレームは倒立させてゴシゴシ。こうすると水抜けがいいので。)

(おおっ。ピカピカになったぜよ。)

(スプロケ周りも泥が落ち…。)

(やっかいなFD回りも何とか泥が落ちました。)
この後は、お約束の注油作業。
各部にメンテルーブを注して、全てOK。
これで気持ちよくライドができるってもんでさぁ。


さぁて、本日のXTC3の作業が終わったので、本業(家の雑用)に移るかな。

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